研究史と通説1 「迂回奇襲」説と 現代の定説「正面攻撃」説

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 筆者の桶狭間合戦像を述べる前に、これまでの定説を見ていきたい。

 明治以降、長い間定説とされていたのは、日本陸軍参謀本部が明治三十二年(一八九九)に発行した『日本戦史 桶狭間役』に記載されたもので「迂回奇襲」説と呼ばれる。本書は士官養成用に作られた戦史研究書のシリーズの一冊で、桶狭間の戦いでの信長の勝利を「迂回奇襲」によるものとし、新興日本の弱小軍隊が大国に勝利するために採るべき戦術の模範例として位置 づけている。

 ただし、史料批判を行わずに種々雑多の資料を博捜して、予定調和的に描かれており、明治期に帝国陸軍に導入された参謀旅行や兵棋演習などによる検討もなされておらず、そこに描かれた合戦像は、現在では学術的に信頼に値しないとされている。

 しかし、谷間の低地で休憩していた今川の大軍に対し、雨中に山間を長駆迂回した信長軍が山を下って奇襲したというこの説は、大軍を少人数の奇襲で打ち負かすという日本人好みのストーリーだったことも相俟って、小説や大河ドラマなどでも採用され、長く史 実と信じられてきた。

 しかし、昭和五十七年(一九八二)に歴史研究者の藤本正行氏が雑誌『歴史読本』において「異説・桶狭間合戦」を発表し、さらに平成四年(一九九二) に『信長の戦国軍事学』を公刊して「正面攻撃」説を唱え、従来の「迂回奇襲」説を否定した。

 藤本氏は、義元の本陣があったのは 「谷間の低地とは限らない」と初めて指摘し、「それ(風雨)が織田軍の背中、今川軍の顔に吹きつけ、しかも楠を東に倒したと言うから、織田軍は東向きに進撃したことになる。(中略) 織田軍は中嶋砦を出て東に進み、東向きに 戦ったわけで、堂々たる正面攻撃ということになる」と主張した。現在ではこの説が主流であり、歴史学会でもほぼ定説となっている。

 ここで重要なのは、藤本氏が『信長公記』を史料的根拠としてこの説を展開している点である。この点でこの説には説得力があるが、筆者はいくつかの点で疑問を持っているので、これについては後述する。

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