研究史と通説2 桶狭間の戦いについて記された史料

新説!桶狭間の戦い

 次に、桶狭間の戦いの研究に用いられる史料について説明しておきたい。基礎となる史料だが、まず何より重要なのは『信長公記」である。信長の家臣太田牛一が著した信長の伝記だ。桶狭間の戦いについて記載があるのは、信長が上洛した永禄十一年(一五六八)以 降、毎年一巻という編年体で編まれた本編一五巻とは別に、後からまとめられたと考えられている「上洛以前の記」 (以後、「首巻」という)だ。

 桶狭間の戦いについて詳細に記述された史料は、傍証となる一次資料の文書類(岡部五郎兵衛尉宛今川氏真感状など)を除いて、この「首巻」以外には一切ないことから、「首巻」が最重要視されている。また、本編の記述の信頼性の高さも証明されており、「首巻」は一次史料に準じるものとされている。
 
 その「首巻」は牛一の自筆本が未だに発見されていない。残っているのは写本のみで、その写本も町田久成本、陽明文庫本、旧南葵文庫本、そして平成二十六年(二〇一四)に『愛知県史 資料編14』において印刷物として読めることになった天理大学附属天理図書 館所蔵本(以後『天理本」という)を加えた四種類・一〇点あまりしかない。
 
 四種類の「首巻」の中でも『天理本』は先の三種よりも古態を留めていると言われる。また他の三種の写本とは著しく異なった独自の内容を持っている。そればかりでなく、これまで創作とみなされて史料としての価値を一切付与されてこなかった小瀬甫庵の「信長 記」(以後、『甫庵信長記』)の内容に非常に似通った記載がある。

 この点について、東京大学史料編纂所の金子拓氏は、桐野作人氏の研究過程で明らかにされた特徴、すなわち「天理本(の「首巻」)は桶狭間合戦の場面において具体性・臨場感をもった記述がある点、『甫庵信長記』の成立に影響を与えた のではないか」という点を指摘している。

 他には編纂史料がある。これは、後世になって桶狭間の戦いに関する残存資料や口伝などを集めて編纂された書物で、泰平が到来した江戸期に、当時の身分制社会では自身の出自が「家格」を決める最も重要な要因であったため、先祖がいかに徳川家に忠誠を尽くしてきたか、いかに武芸に秀でていたか等を誇示すべく一斉に、しかも大量に作られた。

 江戸期もやがて町人文化が花開くと、庶民も歴史に興味を持つようになり、歴史は出版物の一分野となった。その中のひとつに「軍記物」と呼ばれるものがある。これは武士の活躍を描いた文芸作品で、一般に史料的価値は低い。 ただし、『甫庵信長記』と『三河物語』はその成立時期の早さから、事実を記録した部分がかなり含まれていると筆者は考えている。

 『甫庵信長記』は池田恒興や堀尾吉晴らに仕えた小瀬甫庵が慶長十六年(一六一一)頃に刊行し、一般に広く読まれた信長の一代記である。『信長公記」だと「首巻」にあたる時期の記述のうち一割ほどが桶狭間の戦いについて書かれており、合戦前夜の軍議のあと酒宴に入ったとの記述などは『天理本」と『甫庵信長記』にのみ共通するところだ。

 しかし、儒教的価値観に沿っての、 また講談調で調子よく語る上での創作も多いとされ、史料としての価値は低いとされてきた。とはいえ『天理本』の研究が深まり、その内容のうち、『天理本』にしか記載されていない部分の正しさが確認されれば、虚飾をはぎ取ると、合戦前夜の軍議の描写のごとく『天理本』と類似する内容を多く含む『甫庵信長記』は、逆に価値のある史料ということになろう。前出の歴史研究者の桐野作人氏などは、『甫庵信長記』を再評価すべきではないかと提言している(歴史読本二〇〇七年八月号別冊 付録「信長記」大研究5頁)が、筆者もそれに賛同する。とはいえ、常に「首巻」と照らして慎重に読まなければならない。

 それには、事実と考えられる部分だけを取り出す必要がある。次に、書かれた記事の時間経過や前後がいい加減であるから、「首巻」 の記述に照らして、再構築したうえで読まねばならない。

 例えば、簗田出羽守が信長に

「簗田出羽守進出テ仰最可然候敵ハ今朝鷲津丸根ヲ責テ其陣ヲ不可易然レハ此分ニ懸ラせ給へハ敵ノ後陣へ懸り合フ間必大将ヲ討事モ候んソ只急せ給へト申上ケレハイシクモ申ツル者哉ト高聲二宣フ」

「簗田出羽守が進み出て、『仰られることはごもっともでございます。 敵は今朝、鷲津丸根を攻めてその陣を取り替えてはいません。しかれば、すぐにでも攻めかかられたなら、敵の後陣を襲って大将を討ちとることもできましょう。ただただ急いでください』と 申し上げると『殊勝な事を言うやつだ』 と大声で皆に言われた)」

 という有名な場面などは、「首巻」には記載されていないが、もしそれが史実であるならば、これは、後述するように、突然の風雨が襲ってきて、山際の信長が全軍に原初東海道を進むように命じたときのことであるはずだ(後述)。

 また『三河物語』は、家康の家臣であった大久保忠教が、一族の武功を公にすることで自家の家格向上を図るために著したもので、今に言う「安城松平家中心史観」のもとになった著作物 で、元和八年(一六二二)頃には成立している。桶狭間の戦いについての直接的な記事はないが、今川方として従軍した松平元康(後の徳川家康)隊の動向を中心に、「今川方から見た善照寺砦の織田勢の様子」を伝える唯一の史料で、より深く検討すべきものであることは間違いない。

 この他に研究書の類もあり、十八世紀には桶狭間の戦いを研究対象として山澄英竜『桶狭間合戦記』が現れ、 十九世紀になると、山崎真人『桶狭間合戦記』と田宮篤輝『新編桶狭間合戦記』が、山澄の研究を参照した考察として発表されている。しかし、編纂史料も研究書も、あく まで著者の解釈や考えを披瀝したもの であって、新たな証拠を提示できてい るわけではない。

 以上の中から筆者は、古態であることを評価して『天理本』、そしてそれを補完する『甫庵信長記』と、今川方から見た唯一の記録である『三河物語』を重視すべきと考える。むろん、『天理本』以外の三種の「首巻」を排除することはしないが、合戦から五〇~六 ○年ほど後という比較的近い時期に成立したこれら三冊を中心に桶狭間の戦いを解釈することで、この合戦の実像 に迫ることができると考えた。