新解釈による桶狭間合戦像1 桶狭間合戦への道

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 筆者の説を述べる前に、桶狭間の戦いに至るまでの経緯をざっと見ておこう。これに関しても昨今急速に研究が進んでおり、最新の説を踏まえつつ、筆者の見解も含めて紹介する。

 駿河と尾張との間には、長い戦いの歴史がある。信長の生まれる二〇年ほど前の永正十年(一五一三)まで、尾張守護の斯波義寛・義達と駿河守護の今川氏親(義元の父)との間で遠江支配をめぐる争いが続いたが、斯波氏が完敗して遠江を失うことで決着がついている。

 その後は天文十六年(一五四七)に、西三河の松平氏の宗主権争いに介入した尾張の実力者・織田信秀(信長の父) が、西三河の安城城を手に入れ、岡崎城主・松平広忠を打ち破って、降参した広忠からその嫡子・竹千代(後の徳川家康)を人質にとった。しかし信秀 の矢作川を越えての侵出とその後の広忠の頓死は、今川義元の西三河進出を早めることになり、翌十七年の小豆坂合戦となる。ここで敗れた信秀は、次いで安城城も攻め取られ、捕虜となった長男・信広と竹千代を交換させられ、 西三河一帯を失う結果に終わった。

 その信秀は天文二十年(一五五一) に四十二歳という若さで病死した (異説あり)。これに動揺した尾三国境の鳴海城主・山口教継が、沓掛城主・近藤春景を誘って今川方に帰順した。これが桶狭間の戦いの遠因となる。信秀の後を継いだ信長は、即座に兵を出し山口教継、教吉親子と赤塚合戦を戦うが、鳴海城を奪回することはできず、これより桶狭間の戦いに勝利するまで鳴海城は今川方の手にあった。

 さらに、今川方は織田方に留まった知多半島の付け根にある緒川 (小川) の水野信元に対して、すぐ北側の村木に砦を築いた。そして半島西部の寺本城主・花井氏を取り込んで、信長と水野氏の分断を図った。これに対して信長は、すぐさま風雨を冒して知多半島に渡り、天文二十三年(一五五四)に村木砦を奪還している。

 しかしその後は、信長も義元もそれぞれの領国の反対勢力鎮圧に追われることになった。信長の方は永禄二年(一五五九)に岩倉織田氏を下して、一応の尾張統一を果している。一方、義元支配下の三河では全土にわたった反今川勢力の蜂起が起きたが、これも弘治二年(一五五六)末には終息したとされる。しかし実際には人質だった松平元康を三河に帰国させて間接統治をする必要があり、さらには義元自身も三河守を朝廷に申請して、自身が直接領国支配に携わらざるを得なくなっていた。

 通説では、桶狭間の戦い直前における尾三国境での争いは、今川方が優勢であったと考えられているが、筆者はそうは思わない。今川方に居城・岩崎城を明け渡していた織田方の丹羽氏が、弘治元年(一五五五)には居城に戻っており、永禄元年(一五五八)には織田方は国境の北部で、失敗はしたものの品野城(瀬戸市)を攻撃している。

 また通説では信長による三河・高橋郡(豊田市)侵攻は『信長公記』の記載順から、桶狭間の戦いの翌年、永禄四年 (一五六一)四月上旬とされている。 しかし同年四月十一日に岡崎の松平元康は東三河の牛久保城を攻めて、公然と今川からの独立を目指すことを表明している。もし同月に信長の高橋郡侵攻があったなら、東三河遠征などしていられたはずがないだろう。また同年五月十一日には隣国美濃の一色(斎藤) 義龍が急死したのを受け、信長は西美濃に侵攻した。 またその後は犬山織田氏の謀反にも手を焼いており、この時期に高橋郡が新たに信長へ属することになる機会はないだろう。このことからも、信長の高橋郡侵攻は桶狭間の後ではなく、前に行われたと見なすべきではないか。さらに、今川方に奪われていた笠寺界隈の桜中村砦や笠寺砦なども桶狭間の戦いの前には既に奪回していたと思われる。

 今川方は鳴海と沓掛の二城を鳴海城主であった山口教継の裏切りによって 手に入れていたが、先に述べたように尾三国境で形勢は逆転して、劣勢を強いられており、はっきりした時期は不明だが、一発逆転を期した山口が大高城を欺瞞して奪い取る挙に出た。これ にすぐさま反応した信長は、鳴海・大高両城を付城で封鎖したため、特に大高城は兵粗欠乏に困窮して、ついに義元の駿河からの後詰(救援)を招くに至った。これが桶狭間の戦いの直接の原因となる。このように、この時点で今川方が優勢などということは有り得ないと思われる。

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