新解釈による桶狭間合戦像2 合戦の前日、義元は どこに泊まったか?

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 義元の足取りは「首巻」では「五月十七日今川義元沓懸へ参陣」としており、織田方は十七日に義元が沓掛に参陣したと認識していたが、これは後述するように誤認である。
 また、合戦は十九日だから十八日は空白である。研究者は皆、義元は沓掛城に宿営したと信じて疑う事がないのだが、では十八日の義元と駿河勢は沓掛城で一体何をしていたのだろうか。 休養か、付近の村への乱取か。

 まず十七日に義元がどこへ向かったかだが、『三河物語』には、「義元は引間ヲ立て吉田に付(着) 先手ハ下地之御位・小坂井・国(国府)・御油・赤坂に陣取、吉田ヲ立て岡崎に付(着)、所(諸)勢は屋萩(矢作)・鵜等(宇頭)・今村・半田・八橋・地(池)鯉鮒に陣之取、明ケレバ義元地鯉鮒に付(着)給ふ〈義元は浜松を発って豊橋に着いた。先行部隊は下地の御位、小坂井、国府、御油、赤坂と進んだ。義元は豊橋を発って岡崎に着いた。他の部隊は矢作、宇頭、今村、牛田、八橋、知立と進んだ。翌十七日には義元も知立に着かれた〉」
とあるように、一直線に尾三国境に向かっており、十七日には池鯉鮒(知立)に着いているのだ。

 『三河物語』 を評価する筆者の立場からすれば、清洲の信長たちは今川方の先手(先行部隊)を義元本隊と誤認していたことになる。すなわち、『三河物語」は十七日に義元は知立に到着したと書くが、 二手に分かれて進んできたはずの先手の行先は書かない。ところが、信長方の眼から見た今川方の動向を記す「首巻」は前述のように「五月十七日、今川 義元沓懸へ参陣」と書いている。これによって、信長方が、今川方の先手が沓掛城に入ったのを知って、これを義元本隊が沓掛に到着したと誤認したことが判明する。これは、信長の情報能力などはたかが知れたものだったということも意味する。

 次に、翌十八日に義元が何処で何をしていたかについて見ていこう。わかりにくい書き方だが『三河物語』には具体的に書かれている。

「永禄三年庚申五月十九日に義元は池鯉鮒寄、段々に押て大高え行、棒山之取手(丸根砦)をつくつくとジュンケンして、諸大名を寄て良久敷評定をして、さらば攻取(中略)元よりスゝム殿(松平元康)ナレバ、即押寄て責給ひケレバ〈永禄三年(一五六〇) 五月十九日に義元は、(前日に)知立から手順どおりに大高城へ行って (織田方の付城である) 丸根砦をつくづくと巡検して、諸大名を集めて少し長い時間、軍評定を行って、それならば攻め取ろうと(中略)もとから逸る気持ちの松平元康だったので、丸根砦に押寄せ攻めたので〉

 原文の「五月十九日に義元は池鯉鮒寄」の部分は「五月十九日に義元は、」と句読点をつけるとわかりやすい。そのあとの「寄」は当て字で実際には「より」つまり「~から」という意味で、あとの文章は十八日の話が書かれているので、つなげては読まない。合戦当日の五月十九日に知立に寄れる(戻る) 時間的な余裕などあるはずがないのだから。 ここから推測できるのは、十八日に義元が大高に到着していたことである。

 「段々に」とは、もともとは階段状にという意味だが、ここでは「然るべき手順を踏んで」という意味となり、知立から手順を踏んで十八日には「大高城に入った」と考えなければならないだろう。そして「棒山之取手をつくつくとジュンケン」したのだ。そして翌 日の十九日にあったことは、大高へ行ったことでもなければ、評定でもなく、松平元康が丸根砦を攻め落としたことである。

 義元は十八日の夜、大高城に泊まったのである。沓掛城ではない。筆者の考えが通説と大きく異なるのはこの部分である。

 もし沓掛城に泊まっていたなら、沓掛と駿河勢の朝比奈勢が攻めた鷲津の距離は約十一キロメートルあり三時間ほどかかるため、十九日夜明けとともに鷲津を攻撃しようとするならば、駿河勢は午前一時半ころに沓掛城を発ち、危険な夜間行軍をしなければならなく なるだけでなく、丸根砦付近を通過する時に織田勢に攻撃される危険があるし、当日大高城から丸根砦攻撃に出る松平隊と動線が交差して混乱しただろう。

 しかし「首巻」によれば前夜十八日夜に松平隊が大高城への兵運搬を行っていることは、織田方の間諜が信長に注進したとの記述により判明しているので、今川勢も兵入れの護衛を兼ねて、松平隊と一緒に大高城に入った方が合理的ではないか。そして、義元自身も今川勢、松平隊と行動を共にして、前夜の内に大高城に移っていたと考えた方が自然である。

 もし織田方との最前線に位置している沓掛城に義元本隊だけが残っていたら、本隊の兵力によっては危険な状態になりかねない。織田方の善照寺砦から指呼の間にあって信長勢が襲うことが十分考えられる沓掛城は、決して後方の安全地帯などではないからだ。

 ところで、牛一は十八日に今川方の作戦が漏れ聞こえてきたと伝え、「首巻」に以下のように書いている。

「十八日夜二入大高へ兵根入、無助様ニ十九日朝塩之満干ヲ堪かへ二ヶ所之取手を可払之旨必定と相聞候由、十八日ノ晩二佐久間大学方より注進申上候処〈今川方が十八日の晩に大高城へ兵根を運び入れる事、及び、(今川方に味方する服部党が、明朝の潮の干満を利用して大高城に兵を入れる際に) 織田方に邪魔されないよう鷲津と丸根の両砦を排除しようと計画していることは間違いない、との報告が十八日の晩に佐久間大学から清洲にもたらされた」

 この部分については昔から、十八日の夜に松平隊が兵根を搬入してしまった後の十九日の朝に敵の付城を排除するというのでは、順序が逆ではないかという、極めて常識的な疑問が指摘されている。しかも、「塩之満干ヲ勘かへ」(潮の満ち干を考え)という部分も、満潮でも上ノ道を通れば遅れるだけで、信長勢の進軍を止めることなど出来ないことは明白なのだから、潮の満ち干を考える理由が解らない。これらの謎は昔から指摘されてはいるのだが、未だに合理的な解釈がなされていない。

 そこで筆者は以下のように考えた。それは「首巻」の、合戦当日の描写に、「爰二(十九日) 河内二ノ江の坊主・うぐいらの服部左京助義元へ為手合武者舟弐千艘計海上ハ蛛之子を散かことく大高之下黒末川口迄乗入候へ共〈この合戦には、木曽川河口にある二之江 うぐいらの浦を拠点とした服部左京助が義元へ協力して兵士を乗せた船二〇〇〇艘ほどで到着しており、海上は蜘蛛の子を散らしたかのようであった。 服部は大高城下の海を黒末川の河口まで乗り入れて来てはいたが〉」

 とあり、「三河物語」には、 (十九日) 「(丸根の)佐間(佐久間) は切て出けるが、討ち漏らされて落ちて行く 家の子郎党供をば悉打取る (中略)其寄大高之城に兵ラウ米多く 誉〈丸根砦の佐久間は打って出たものの、討ちとられることなく逃走していったが、他の守備に入っていた兵士は(今川方が)ことごとく討ち取った(中略)それから大高城に兵糧米をたくさん運び込んだ〉」

 とあることから、義元はこれまで多大の損失をこうむりつつ大高城に兵を入れなければならなかった状況を打開するために、二之江の鯛浦の服部党を味方に付けることに成功していたと考えることができよう。そこで今後は海上から兵根を大高に搬入するように取り決めたので、その際に織田方の妨害を受けなくて済むように織田方の丸根・鷲津を排除することを計画し、十九日の潮の満ちるときに服部党の兵船を接岸させ、引き潮にのって離岸することを考えて、それに間に合うように攻撃することにした、と解釈した。こう考えれば、前夜に兵糖を入れた後になって今川方が鷲津、丸根の両砦を攻撃したことも、服部党が十九日の朝に「潮の干満を考え」た理由も説明できる。

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