研究史と通説3 地形と道

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 さて次に、当時の桶狭間の「地形」と「道」に関して基本的な事柄を記しておく。既存の説は地形的に実行不能な説が多いからである。

 桶狭間の戦いで戦場となった地域は、名古屋市緑区桶狭間の周辺で、現在は名古屋市と豊明市にまたがる一帯である。しかし特に海岸線が現在と大きく異なるのでまず注意が必要だ。当時は伊勢湾が今より内陸へ入り込んできており、鳴海城の南側と西側は海であっ た。大高城も鳴海から海岸が続き、海に面していた。

 この一帯は南に伸びる知多半島の付け根にあたる部分で、緩やかな丘陵地帯となっている。現在JR東海道本線が走る地峡(仮称、大高地峡)を境にして、北が「尾張丘陵」、南が「知多丘陵」と呼ばれている。

 「尾張丘陵」(鳴海丘陵とも言う)は、扇川以南を「有松丘陵」、北側を「鳴子丘陵」という。一帯には標高五〇メートルから八〇メートルほどの小山が点在している。比高は二〇〜三〇メー トルに過ぎないが、定高性がある。その中で最も高い孤峰が「二村山」で、標高七一・八メートルあり、中世には鎌倉街道がその「峠」を通っていた。

 しかし桶狭間の戦いの頃には、 鎌倉街道は二村山の峠を通らず、 その南麓、現「濁池」の北縁を通っていた。これが合戦当時には三河・鳴海間の「本道」となる。このため、二村山の峠を通る旧い鎌倉街道を押さえていた沓掛城の戦略的価値は、桶狭間の戦いの頃に はすでに薄れていた。

 尾張丘陵の南部に位置する扇川以南の「有松丘陵」は、地峡(仮称、有松地峡)によって南北に分断されており、北部を「二村山西麓」、南部を「桶狭間丘陵」とここでは仮称しておく。有松地峡を通っている現在の東海道は戦いの当時はまだなく、閑道として利用 され始めていた(ここでは原初東海道とよぶ)。天正十二年(一五八四)の小牧長久手合戦のときに、徳川軍が進んでいることから、その頃までには軍勢が通行できるような道になっていたと考えられるが、信長が命じて領国の街道整備を始めるまでは、軍勢の通行には適さなかった。

 当時の道は、鎌倉街道、閑道としての原初東海道、大高道(大高~大脇)、中島から善明寺~丸内~前之輪(鳴海 八幡宮)を経て大高へと続く砂洲上の丸内古道、中島から南下して平部山越えをした小川道(鳴海~緒川)、そして鳴海道(鳴海~桶狭間)だけである 。

 そして当時存在していた付近の集落は、沓掛城のある沓掛村、その南の阿野村、さらに南の大脇村、その西の桶狭間村、さらに西の大高村、その北の鳴海村、その東の相原村、横根村である。また中島砦の中島にも小集落があったと「首巻」(以下、断りがない場合はすべての写本に記載されていることを意味する)に書かれている。なお 有松絞や旧東海道の古い町並みで現在では観光地となっている有松村は江戸時代の慶長十三年(一六〇八)に作られており、桶狭間の戦いの当時、まだ集落はまったくないことに注意していただきたい。

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