尾張時代の信長を巡る

中日web連載記事

尾張時代の信長を巡る

今川義元の首塚は西尾市にあった! これはおそらく本物でしょう

中日新聞web達人に訊けでちょっと前に書いた記事ですが、鳴海城を死守した岡部元信が義元の首を貰い受けて撤退をしたあたりの話を考えてみました。記事はこちら しかし途中なぜ刈谷城を襲ったのか、そこだけはどうにもわからないところです。
尾張時代の信長を巡る

中日新聞webに「どうする家康」の感想を書いてみました。

「どうする家康」一回目の放送を観て書いたものですが、中日新聞webに掲載されました。二回目を観るとますますツッコミどころ満載なんですけど、さすがに時代考証は大丈夫かという声も上がりつつあるようで。どうなる「どうする家康」w (写真は家康初陣...
尾張/知多/西三河/美濃

いわゆる濃姫や桶狭間後の瀬名姫に子がないのはいったい?

大河ドラマ「どうする家康」では家康と瀬名姫が、東映大作「レジェンドアンドバタフライ」では信長と濃姫が、共にずっとラブラブというのが、物語の骨幹となっているようです。まあ、それに水を指すのですが、桶狭間の後に家康と瀬名の間には子供ができていま...
尾張時代の信長を巡る

1559(永禄2)年、信長は初めての上洛の時、大和路を使ったのではないか

さて、『若き信長の知られざる半生』でも少し書いていますが、今回はあまり知られていない(と言うか私が考えている)信長の三男とされる信孝の出生に関して、書いておきたいと思います。織田信孝は1558(永禄元)年の生まれで、母は坂氏の女とされていま...