新解釈による桶狭間合戦像6 十九日の織田方の動き

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 信長の軍勢が素早く行動できるのは、 直率兵力である旗本以外の国衆についてはいちいち清洲に集合させるのではなく、信長の向かう場所に集合させる方法をとっていたからだろう。その場合、不測の事態に陥る危険のある夜間の行動を避け、夜明けを待って行動するのが、指揮官として最善の判断だったはずだ。

 そこで十九日未明から今川勢が丸根・鷲津両砦に攻め寄せたとの注進を受けると、信長は出陣を各所に知らせるとともに、清洲を主従六騎、雑兵二〇〇人で出陣する。一二キロメートル先の熱田・源太夫宮の前浜まで来て戦場方面を海越しに望見すると、すでに両砦が落去したことを示す煙が上がっていた。信長がここに着いたのは午前八時頃である。「首巻」には「三里一時二懸させられ」と書かれているが、この「一時」について、ここでは「一刻」つまり二時間と考えたい。その場合、進軍速度は時速六キロメートルとなり無理はない。清洲を出たのは午前六時頃だろう。四時頃に大高城を出陣した今川軍を、鷲津や丸根の城兵が見つけてすぐさま伝令が清洲に走れば、時間的に問題はない。清洲~丸根砦間は五里一二町余=二一キロメートルあり、時速一〇キロメートルで急いで駆けたとみなすならば二時間の工程だ。

 丹下砦に向かって信長は熱田を出るのだが、この時の伊勢湾の満潮時刻は午前八時のため、鎌倉街道の海辺を行く道は海没して使えず、遠まわりになる上ノ道を急ぐことになった。定説では義元が信長の参陣を遅らせるために潮の満干を考慮に入れたと解釈されているが、信長の進軍そのものを止めることはできないから、それは誤りである。伊勢湾が満潮になっても、単に鎌倉街道の下ノ道が通れなくなるというだけであって、実際に信長は上ノ道を通って戦場に向かったことが「首巻」に以下のように書かれている。

 「浜手より御出候へハ程ちかく候へ共塩満差入御馬の通ひ無是、熱田かミ道をもミにまふて懸させられ〈東に見える南浜通の道は距離的には近いのだが、ちょうど満潮で馬の通行もできなくな っていた。そこで鎌倉街道の上の道をもみにもんで馬を走らせ〉」

 信長は丹下砦に寄って、砦の兵も引き連れて善照寺砦に入り、諸方から集ってきた兵たちを勢揃いさせ、戦況を観察したところ、後詰が遅れたことで、今川勢は引き上げにかかっていた。その多くはまさに撤退中だったと考えるべきである。そうであればこの後に続 く信長の訓示に矛盾はなくなる。『三河物語』が、信長勢が肉薄しつつある中で、未だに今川勢の殿軍が山上に残っていたと書いていることがそれを証明する。

 佐々・千秋の敗戦を見た信長は中島砦へ移ると言い出した。家臣が、馬のくつわの引手を持って声々に諌めたのだが、信長はそれをふりきって中島砦へ移った。このとき兵力は二〇〇〇人に満たなかったという。信長は、さらに中島砦からも出陣しようとしたが家 老衆は無理にすがりついて出陣を止めようとした。

 その時の信長が発したのが問題の訓 示だ。『天理本』では以下のように記 されている。

「各能々承候へ、あの武者は宵に兵粮つかひ夜もすから参り大高へ兵粮入、鷲津・丸根両城にて手ヲ砕辛労して草駄たる武者也、こなたハ新手成、其上莫小軍ニシテ怖ルゝコト大敵ヲ、運は在於天、此語ハ不知乎かゝらハ引、ひかは引付、 於是非稠倒シ可追崩事案ノ内也、一切不可為分捕、軍に勝ちぬれは此場へ乗たる者家之面目末代之高名也、唯可励〈みなよく聞くように。あそこに見える敵勢は、昨夜の夕方に食事をしただけで、一晩かけて大高まで行軍して兵を入れたうえ、今朝は鷲津・丸根という二つの城攻めを行って骨折りし、青息吐息で、くたびれている敵ではないか。味方はまだ一戦もしていない新手であるぞ。それだけではない、兵数が少ないからと言って大軍を恐れるな、運は天にある。次のような戦訓を知らないか。味方が攻撃していけば敵は退く。敵が退いたらそれに付け込み敵に密着して離れるな。 かさにかかって攻め立てよ。こうすれば必ずや敵をひねり倒し、追い崩すことができるのは言うまでもない。一切分捕りをしてはならない、この戦いに勝ったならば、この場に参陣した者は家の名誉である。末代までも功名が鳴り響くのだ。ただただ各々力を尽くせ)」

『天理本』では「かゝらハ引」(前掲 原文の傍線部分)とあって、「け」とおくっていない。「引」は文意からすればここは「ひく(退く)」と読むのが正しいはずである。だから「かゝらハ引、ひかは引付」は「各々が攻めかかれば、疲れた敵は支えきれずに退くはずだ。敵が退いたならばそれに付け込み敵に密着して離れるな」と解釈するのがもっとも自然だろう。『陽明本』 では「懸らハひけ、しりそかは引付」としているが、突撃しようとする部隊が、敵が掛かってきたからといって退くことなどありえないだろう。この部分は意味が通らないにもかかわらず、 昔から誤解されている部分だ。

 このように、信長も家臣らも、今川方の状態を誤認などしていない。信長と善照寺や中島砦の将兵は、夜明け前から移動し、あるいは砦を攻めて疲れ切った今川勢が後退していくのを見たと考えるべきなのだ。家臣たちが何度も信長の出陣を阻止しようとしたのは、単に兵数に差があることを実際に善照寺砦などから見てわかっていたからに過ぎない。そこへ前田又左衛門らが佐々・千秋の戦いに参加して得た敵の頸を持って来たので、信長は彼ら一人一人に同じ事を言い聞かせたのだ。

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