尾張/知多/西三河/美濃

信長の時代、守山城と木が崎は陸続きだった

先日の東海古城研究会の守山城ツアーで、明和4年(一七六七)に矢田川の大洪水があり、それまで長母寺(木が崎)の南を流れていた矢田川が、長母寺と宝勝寺(信長の時代の守山城)の間にあった陸地部分を突き破って西に流れ、流路が大きく変わったことを知り...
新説!桶狭間の戦い

研究史と通説4 「正面攻撃説」の詳細

ここで、現在定説となっている藤本氏の正面攻撃説について確認しておきたい。この説は概略次のような内容である。  駿府を出発し、五月十七日に池鯉鮒 (知立)に到着した義元は、十八日には沓掛城に入り宿泊。一方、同日夜、松平元康隊が大高城に兵糧を入...
新説!桶狭間の戦い

研究史と通説3 地形と道

さて次に、当時の桶狭間の「地形」と「道」に関して基本的な事柄を記しておく。既存の説は地形的に実行不能な説が多いからである。  桶狭間の戦いで戦場となった地域は、名古屋市緑区桶狭間の周辺で、現在は名古屋市と豊明市にまたがる一帯である。しかし特...
新説!桶狭間の戦い

研究史と通説2 桶狭間の戦いについて記された史料

次に、桶狭間の戦いの研究に用いられる史料について説明しておきたい。基礎となる史料だが、まず何より重要なのは『信長公記」である。信長の家臣太田牛一が著した信長の伝記だ。桶狭間の戦いについて記載があるのは、信長が上洛した永禄十一年(一五六八)以...
新説!桶狭間の戦い

研究史と通説1 「迂回奇襲」説と 現代の定説「正面攻撃」説

筆者の桶狭間合戦像を述べる前に、これまでの定説を見ていきたい。  明治以降、長い間定説とされていたのは、日本陸軍参謀本部が明治三十二年(一八九九)に発行した『日本戦史 桶狭間役』に記載されたもので「迂回奇襲」説と呼ばれる。本書は士官養成用に...
若き信長の知られざる半生

名古屋市内48万世帯へ配布されるシニア情報誌「ローズ」22年1月号に「若き信長の軌跡」第19回を書きました。

おそらく義元が居たはずの場所から、義元と同じ風景が今も見られるのは素晴らしい。樹木の伸びは著しいので、ここ数ヶ月が一番見晴らしよく眺められると思います。駐車場はありませんので、歩きでどうぞ。
講座・講演

栄中日文化センターで 1/26 新説!桶狭間の戦い これで全ての謎が解けた

新説!桶狭間の戦い

『歴史群像』2019年10月号掲載 新解釈「桶狭間の戦い」     文=かぎや散人(歴史研究家)  構成=水野誠志朗(ライター)

まず、雑誌『歴史群像』で発表した、新解釈「桶狭間の戦い」の全文を掲載します。これはかぎや散人氏の原稿を水野が構成して、さらに歴史群像編集部の校閲を経たものです。やや難解な部分は、おいおい解説を加えていきます。 信長は本当に「正面攻撃」で勝利...
若き信長

はじめに

この信長像を見るたびに、信長は美濃の人ではなく「尾張の人」であると、若干口惜しく思います。尾張時代の信長に関して、色々ここでまとめておこうと思います。