『信長公記』天理本首巻に「大高の南に小川衆(水野信元勢)を置いた」というのは、尾張徳川九代宗睦が内藤東甫に調査させた地誌『張州雑志』(1789)に「正光寺砦 村ヨリ東南五町計ニ有ト云」とされた正光寺砦のことと考えられます。『歴史探偵』で数年前に私が指摘したところですね。
ここが今なぜ無いのかは『今昔マップ』で見ていけばわかります。1888年・1932年・1959年・現在と見ていけば、砦のあった山そのものが削られて無くなっているのがわかります。1935年に大日本紡績大高工場建設で削り取られたということのよう。
正光寺砦とその向かいにある丸根砦で、その間を通る大高道での兵糧入れを遮断するのが目的でした。桶狭間の戦いの前に、大高道が通行できるようになっていたのは、水野勢がこの砦にいなかったからということになります。
それでは神君兵糧入れの格好がつかないので、この事実は有耶無耶になってしまったのかも。いやもっと深い何かがあるのか…さらに砦山そのものも現在では無くなっているわけで、桶狭間の真相がわからないのも無理からぬところ。