信長は中島砦を出撃すると、鳴海~桶狭間道(旧東海道筋)を進撃して、高根山などの「山際」すなわち手越川を渡る鎌研橋あたりで、撤収を終え高根山の峠に陣取って鳴海~桶狭間道 (長坂道)を遮断した今川方の殿軍と対峙した。当時、中嶋砦を出て東南に当る桶狭間村に向かう道はそれしかな い。
ところで、藤本氏の説では戦場の過半を今川軍が占領しているとし、中島砦の南の鷲津・丸根砦のある丘陵 (現・青山)や東の丘陵(平子ヶ丘) も今川軍が占領していたとするが、 「首巻」にはそうしたことを示唆するような記述はない。また、中島砦の東にも南にも敵の存在については言及されていない。中島砦から桶狭間村への道は、当時は前述の一本しかないが、そこを前進している信長勢が山際まで移動する間、緒戦に勝って意気軒高な はずの今川軍から東からの横撃も受けておらず、南からの迎撃もされていないことからも定説には疑問が生じる。こうした攻撃がなかったからこそ信長勢は山際までは何の問題もなく進出できたのだ。
一方、義元自身はこのときすでに桶狭間村の六四・九メートルの丘陵上に本陣を置いていたであろう。この丘陵はこの一帯では最高峰ではあったが、高根山の陰にかくれて善照寺砦や山際の信長勢は見通せない。
根拠になる文献はないが、まず兵法の常識として、敵を前にして平地に本陣を置くことはない。義元は現・大池 (当時は深田)を前にして、これを堀に見立て、さらにそれより北西の高根山の長坂道の峠には先備(殿軍でもある)を置き、充分な防御陣地を敷いたはずだ。したがって本陣は桶狭間村の最高峰である六四・九メートルの山以外にありえない。
両軍が対峙すると突然の暴風雨に見舞われる。正面から吹き付ける雹まじりの豪雨で今川勢が面をあげられないことを幸いに、信長は風に背中を押されるまま軍勢を長坂道ではなく閑道、すなわち有松地峡の原初東海道に導き、風雨に背中を押されて移動した。つま り、今川方の殿軍を攻撃することなく迂回して、さらに東にいるはずの義元本隊へと向かったのだ。ここで雨を利用して動いたことこそ信長の戦術眼の鋭さを示している。
「陽明文庫本」は「沓懸ノの松之本に、 二かい・三かゐの楠の木、雨に東へ降倒る〈沓掛の松の根元に二抱え、三抱えもある楠が雨に降られて東へ倒れた〉」という。この一文は、牛一が、その日の豪雨の激しさを語るための創作だという見解もあるが、伝聞をあらわす「由」という文字を用いていないため、直接経験したものとして扱うべきであろう。つまり突撃前の信長勢の進んだ場所は、山際から「沓懸ノの松之本」を見通せた場所でなければならないということだ。信長は雨中、原初東海道をそこまで到達していたのだ。
楠の大木が吹き倒されるところを実見することができる場所は、現在の「大将ヶ根交差点」のあたりだろう。 その先が現在の字「境松」で、標高二七メートルと原初東海道で一番高い「沓懸ノ到下 (峠)」となり、そこにあった楠の木が倒れるのを信長勢が見て、並はずれた風雨の猛威に驚き、熱田大明神の神風かと士気が上がったのである。沓掛の 峠とは、通説が想定するような鎌倉街道の二村山の「峠」などではない。二村山の峠が「沓掛峠」と呼ばれた事実はないし、この時代にはすでに街道の役割すらもはたしていなかっ た。
雨が上がると同時に信長勢は、江戸時代になって溜池が作られたことで竹次池の名前がついた道もない狭間(今は、地元では釜ヶ谷と呼んでいる)を 通って、北側から桶狭間村に雪崩れ込 んでいった。信長は、そこから深田の縁に沿って近崎道で、桶狭間山(六四・ 九メートルの山)の麓を現在の大池の東あたりまで進んだところで、義元の塗輿を発見し、同時に山頂に旗本の集団を発見すると、ここで東に向って突撃するように命令を下したのだ。
一瞬で今川本陣が崩れ立ち、山上の義元の前で山麓に控えていた塗輿も放置したと「首巻」には書かれているから、今川勢の潰走した距離も短く、織田軍の追撃した距離もまた短かったと推測できる。今川勢は北側の原初東海道上には逃げられない。深田に遮られ て西へもまた逃げられない。東の大脇村方面は「高ミひきミしけり、節所と云事無限〈高かったり低かったりしたうえ、薮が密生しており、大変な難所〉」(『陽明文庫本』『天理本』)であ ったから、こちらへも逃げられない。南には桶狭間村の集落があったが、こ ちらも小山の陰になって逃げにくかった。唯一の逃げ道は近崎道とよんでいる深田の東をめぐる街道だけだ。
ところが牛一によると、信長は「東へ向て懸り給フ」(『陽明文庫本』『天理本』)というのだから、近崎道側から攻め上ったことになる。つまり、唯一の逃げ 道から信長軍が攻めて来るのである。道へ下りることもままならなかった義元の旗本たちは「義元を囲ミ退けるか、二・三度、四・五度帰シ合(〈義元 を囲んで後退していたが、二度三度、 四度五度と引き返しては〉」、信長の攻撃を防いでなんとか桶狭間集落か大高 道へ逃れようとしたが、数に阻まれ、組織的な退却戦を行う事もできないまま討ち取られたのである。
つまり、この戦いは『甫庵信長記』が言うように、折からの風雨を利用して、今川殿軍を「迂回した奇襲」だったのであり、昔の人々が「折からの豪雨を利用して、今川軍に秘かに接近し、奇襲をかけた」と考えてきたのは、実はまったくもって正しかったと筆者は 考えている。再び繰り返すが、江戸時代もごく初期であれば、小瀬甫庵などは牛一の書いた桶狭間の戦いを正しく理解できていただろうし、またその読者も何の疑いもなく正確に理解したと考えられる。しかし、時とともに自儘に解釈した文書が作られていったのだ。
以上が筆者の考える「閑道迂回奇襲」説の概要である。読者の批評を待ちたいと思う。