一方、織田方の状況はどうだったか。話を合戦前日 の十八日の夜に戻そう。
『天理本』には、織田方では合戦前夜(十八日夜)に軍議があり、信長が国境で迎撃することを主張して重臣らの籠城論を断固退けていたことが書かれている。これは、前述した前線からもたらされた今川方の計画 (十八日晩から明朝にかけて大高城に兵根を入れること)を前提にした軍議だ。織田方は明らかに今川方が兵力において優勢であると認識していた。そして信長は 士気を盛り上げるために酒を出して景気づけの宴会をし、夜も深まったからということで、皆を散会させている。
『陽明文庫本』では、このときの信長は、具体的な作戦計画を一切定めなかったとして家老衆が呆れているとする。『天理本』では軍議があり、すくなくとも信長とそれに同調する者は、出撃して今川勢に決戦を挑む覚悟であるこ とが判る。
この二つの記事は一見すると矛盾するようだが、『天理本』は軍議の前半だけを、『陽明文庫本』は軍議の結果に対する評価を記したのだと見れば、そこには矛盾はない。
そうした場合に信長方のとる戦術が機動防御である。 陣地防御を行うには広すぎる正面、少なすぎる兵力という状況で、敵阻止のために城砦や陣城で守るのではなく、高度に機動しながら、戦機をうかがい、敵の油断や準備の不足を突いたり、敵が兵力を分散している状態をとらえて、局地的、相対的な優勢を作り出し、各個撃破を行うことで、戦機を見出そうとする戦術だ。
実施するには、拠点陣地・機動打撃部隊・防御縦深が必要とされるが、桶狭間の戦いでの拠点陣地は付城群であり、機動打撃部隊は二〇〇〇程度の信長の直率部隊となる。
守備側の信長が、一か所の要害に籠らずに、機動しながら分散した敵を討つには、前線と、敵が目標とする例えば清洲城などの間に、敵の進軍を遅滞させる空間や障害を多数設ける必要がある。それを地理的な「縦深」という。敵が無視して進撃できないような城塞 が多数あって、それで敵の進軍を遅滞できれば、それは時間的な「縦深」と言える。だが実際にはそのような施設 は準備されていなかった。
しかし、敵の目的が本城・清洲でなかったり、その進撃が重鈍であるならば、それは敵の軍事・指揮能力に起因する時間的な「縦深」となり得る。現に、『三河物語』によると、義元は度々長時間にわたる軍議を催したとあり、今川方に従軍した石川六左衛門尉は 「余りにオモクレて (ぐずぐずして)、 手粘く(てこずって) 候」と言っている。そこには、義元の指揮能力に起因する時間的な「縦深」が期せずして生まれていたのである。
信長は、義元には軍事知識、具体的には『孫子』や『呉氏」など兵書の知識はあってもほとんど実戦経験がなく、それに対して常に戦場で先頭に立ってきた経験の豊富な自分の方が、戦機をとらえる戦術眼は上だと考えていたのだろう。