十九日未明、松平元康の隊が丸根砦を攻撃した(頁地図参照)。この場合、戦術の常識では丸根・鷲津砦を攻略するためには、丸根と鷲津の攻撃隊を用意するだけでは足りない。砦の後詰(救援)として中島砦方面から来るだろう信長の軍勢を迎撃する準備をしていな ければならないからだ。
では義元は本隊をどこに布陣したと考えれば良いだろうか。信長が鷲津砦を後詰するため、中島砦を西に出て手越川を渡り、善明寺から丸内古道という砂洲上の道を通って鷲津の背後へ進むのであれば、義元は丘陵の西端の石堀山に陣を敷くことが考えられる。し かし、これを見た信長が丸根の後詰のため南東方向の小川(緒川)道へ向かった場合には、これを迎撃することはできない。
そこで、まず小川道を押さえられる丘陵として諏訪山か漆山に陣取ることが考えられる。そこならもし信長が丸内古道へ向かっても、中島砦を攻撃・占領することで信長を砂洲上の一本道 (丸内古道)に封じ込めてしまうことができるからである。
蓬左文庫蔵『大高城兵入之図』には、「明神森」と書かれた諏訪山と、「義元本陣」と書かれた漆山と思われる山と小川道が描かれているので、義元本人は信長の後詰を迎撃する部隊を指揮して、漆山に陣取ったのだと考えたい。
鷲津・丸根砦への攻撃は、「夜明け」というのだから、当日の日ノ出時刻の四時三十八分を期して行われたものと思われる。これに間に合うように義元が漆山に陣を張るには、午前二時ころには大高城を出陣しなければならない。したがって夜間に兵を運んだ松平勢だけでなく、今川勢もほとんど仮眠しただけで出撃したと推測する。
これは「首巻」に書かれた信長の訓示 (55頁本文二~三段目参照)における戦況判断の正しさを裏付けている。定説の「信長の誤認」などではなく、信長は正しい戦況判断をしたのだ。