ここで、現在定説となっている藤本氏の正面攻撃説について確認しておきたい。この説は概略次のような内容である。
駿府を出発し、五月十七日に池鯉鮒 (知立)に到着した義元は、十八日には沓掛城に入り宿泊。一方、同日夜、松平元康隊が大高城に兵糧を入れた。
合戦当日の十九日は、
①義元は午前十時頃に沓掛城を出て昼前に桶狭間へ着いた(以下、52頁地図参照)。信長も同じく昼前に善照寺砦へ到着したが、その頃には今川「前軍(藤本氏の造語)」が善照寺砦の「南東」の丘陵地帯に進出してきており、 戦場は今川方が支配していたと見なし ている。
②そして、その背後の桶狭間山(藤本氏は場所を特定してはいない)に義元は本陣を置いた。藤本氏は「本陣が谷間の低地とは限らない」と初めて指摘している。
③織田方の武将、佐々隼人正・千秋四郎らは信長の到着を見て、中島砦から今川「前軍」に攻撃を仕掛けたが、織田方は簡単に敗北した。これを見た義元は桶狭間山で勝利の謡をうたった。
④敗北を見た信長は中島砦に移り、さらにここから出撃するにあたって兵士たちに以下の訓示を行った。
「あの武者は宵に兵つかひ夜もすから参リ大高へ兵根入鷲津・丸根両城にて手ヲ砕辛労して草臥たる武者也(あそこに見える敵勢は昨夜の夕方に食事をしただけで、一晩かけて大高まで行軍して兵を入れたうえ、今朝は鷲津・丸根という二つの城攻めを行って骨折りし、青息吐息で、くたびれている敵ではないか)」(「首巻」)
藤本氏は、信長のこの観測、今川方の兵が疲労困憊しているというのは信長の「誤認」であり、今川方は疲労していなかったとする。
⑤ここから織田方は今川「前軍」に向けて東向きに進軍を始め、中島砦の東の山際まで進んだ時に、東向きに吹きすさぶ豪雨となった。藤本氏は、「それ(風雨)が織田軍の背中、今川軍の顔に吹きつけ、しかも楠を東に倒したと言うから、織田軍は東向きに進撃したことになる」とする。
⑥雨が上がると、信長は東に向かっ て今川「前軍」への攻撃を開始する。すると「前軍」は簡単に崩れ、遠い本陣を目指して逃れた。信長がさらに東進すると、敗残兵が雪崩を打って逃げ込んだために、混乱した義元本陣も退却を始めたが、それを東に発見した信 長によって捕捉されて、義元本人が討ち取られてしまった。
筆者はこの説の以下の点に疑問を持っている、あるいは問題があると感じている。
①十八日に義元は本当に沓掛城に泊まったのか。
②戦場の過半を今川軍が占領しているとし、中島砦の南の鷲津・丸根砦の ある丘陵(現・青山)や東の丘陵(現・平子ヶ丘[5頁地図も参照])も今川軍が占領しているとしている点。
③合戦直前の信長による兵士への訓 示の際の、今川方兵士の観測内容は「信長の誤認」だったのか。
④藤本氏が信長の「南東」に想定し 義元の本陣に対して、「首巻」では「東向き」に進んだとしていて、両者の「方角」の扱いが合致していない点。
⑤今川方「前軍」が信長軍の正面攻撃によって二キロメートルもの長距離を敗走して義元本陣に雪崩れ込み、混乱させたとしている点(ちなみにどの「首巻」にも、このような長距離を追撃したとは記されていない)。
これらについての筆者の考えは、後述する筆者の説の中で適宜論じていきたい。