先日の東海古城研究会の守山城ツアーで、明和4年(一七六七)に矢田川の大洪水があり、それまで長母寺(木が崎)の南を流れていた矢田川が、長母寺と宝勝寺(信長の時代の守山城)の間にあった陸地部分を突き破って西に流れ、流路が大きく変わったことを知りました。そして信長の時代は木が崎(長母寺)と守山城(宝勝寺)の間にはおそらく守山城の外堀があり、そこへ反乱した矢田川が流れ込んで、両側の山を削り、流路を変えたのではないかとも。
『信長公記』では弘治元年に起きた事件として、守山城主孫十郎信次の家臣が信長や信勝の弟である喜六郎を誤射することがあり、その後逃亡した孫十郎の家臣らが城に立て籠もったため、信勝配下の柴田権六勝家や津々木蔵人らが木ケ崎口を封鎖、そして信長配下の飯尾近江守定宗、飯尾隠岐守尚清らが守山状を包囲したとあります。
木が崎口は当時はおそらく木が崎の南西にあった矢田方面からの渡しと思われます(そこを渡ると長母寺の大門で、地名も大門。この地名は現在守山城の西側に移転しています)。このことから柴田勝家が木が崎に布陣した、つまり守山城と対峙したと考え、守山城との間には何かがあるはずと考えていました。それが外堀であるなら納得です。つながった高台の間に堀切を作って、守山城の守りを固めていたのだったのですね。そこを挟んで対峙したと。
ただ、洪水が外堀に流れ込んだとはいえ、山をも崩した洪水というのは、なかなか現代の感覚では理解しづらいところです。江戸時代にはこのあたりが尾張藩の大砲の射撃場となっていたという話ですので、矢田川はそうとう広く、大量の水が流れていたのでしょう。織田信光は守山の城と稲葉地の城を持っていたというので、その間は船によって移動したのでしょうね。海岸線、川筋に関しては現代と大きく異なっているわけですが、この守山の城に関してはかなり納得できる状況となりました。やはり江戸期の文献ももっと読まないといけないですね。
右側の森が「守山城」、左側の森が「木が崎」。間を流れる矢田川(流れは手前側から向こう側へ)。この間が山としてつながっていた事になります。そして矢田川の代わりに堀があったと。当時の矢田川は左側へ写真左側へ向かって流れていました。