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水野信元は知多半島支配を目指していた

桶狭間の話を色々調べていると、どうしても気になるのが知多半島緒川の同盟者水野信元です。桶狭間の時に信元がどう動いたか、また大高城の元康(家康)にどう対応したのか(逃したのか)に関してはとても興味深いところですね。これは今後の大きなテーマなのですが。 さて、信元は緒川と刈屋を起点に信長側として知多半島を領有しようと目論んでいます。その中で気になるのは常滑城です。この城に関しては吉田弘氏が書いた「常滑の城」という本が詳しいので要約させてもらいます。 常滑城は緒川水野家が1480年頃に築いたものらしく、半田の成岩(ならわ)城から常滑城を結ぶ知多半島横断陸路を押さえることで、伊勢湾側への出口を確保するという目的があったようです。とはいえ常滑城主は代々連歌など文化面に強い家柄だったようで、宗長、山科言継などが訪れています。1543年に家督を継いだ信元は知多を手中に収めるべく行動を開始し、次々にまわりの小さい城を攻め落としていきます。成岩城の榎本了円を滅ぼし、常滑城三代目の水野守隆には娘を嫁がせ、これで半島横断路は水野信元のものとなりました。常滑でも北部にある大野城佐治氏、河和城の戸田氏とも婚姻によって同盟します。信長の勢力を背景に、知多半島の主を目指して驀進していきます。 さて信元の話は又いずれということで、この常滑城に関してですが、1590年頃には廃城となったようですが、現在の新しい城址碑は、市場町6丁目の正法寺前の公園に建っています。ここが城の西のハズレ、海辺の崖だったようで、今も海が見える素晴らしい眺望です。セントレアが正面に見えています。城址のあった場所は東へ100mほどにある天理教常滑分教会のあたりで、その門の前に古い城址碑が建っています。ここは城山という山があったそうですが大正の始めに削られてしまったとのこと。残念です。 北側の大落川が自然掘で、あたりの古い地名には西堀、堀東、馬場というものもあったそうですから、まさにこの一体が常滑城だったようです。その古図は写真のように残っています。 またこちらは成岩城城址碑。東の海に向かって少し高台に建っていたようですが、今ではまったく何も残っていません。成岩から常滑までの古い道は今もあるようですから、一度歩いてみたいと思っています。

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